原体験 〜僕はあの震災から逃げたのではないか〜
どもども。青木です。
ここ2,3日うにうにと悩んでいることがあります。
それ自体は大きなことではないのですが、「本店所在地をどこにしよう」具体的には、仙台にしようか、東京にしようかで悩んでいます。
こんなときは言葉にしてみようと思いつらつらと書き連ねていきます。
悩む要因は活動拠点、自身のサービスがきちんと顧客の役に立つかを検討するには東京で今協力していいただいている方々と一緒にやらせていただければと考えています。
しかし、仙台で起業したいという思いがあり、仙台で登記をし、活動拠点を東京とすると本社所在地での営業実態がないために最初の資金調達、銀行や政策金融公庫からの借り入れが厳しい。
一方仙台で起業し、仙台を拠点にするとどうしても活動の中心となる東京が遠くなってしまう。
「東京で起業し、東京を拠点としたらいい」という手段が出てくるのだが、どうも踏ん切りがつかない自分がいる。
ということで、今日トミー(チームメンバーの1人)くんを寒い新宿駅で待っていたところで思いあたったことがありました。
震災直後に感じていた「僕が崩れたら皆が崩れてしまうのではないか」という気負い。
仙台を離れる際に、一緒にボランティアセンターを運営していた町内会長さんに別れの挨拶をしたときに、なぜか涙したこと。
ボランティア活動をするときになんとなく感情移入できなかったこと。
仙台の、特に沿岸部のソーシャルシーンに対してうにうにとした感情を持っていること。
震災のときは仙台市内の菓匠三全で、群馬から来た友達のお土産を見ていました。「なんだその着メロ」と笑った音は、緊急地震速報でした。
家に帰って家具のほとんどが倒れているのを認めてからは避難所でボランティア、特に英語が話せたので外国人の方との通訳を担っておりました。暖房器具の足りていない体育館は寒く、固いステージの上に体を横たえると寒さが下から伝わってきました。ラジオからは荒浜で200名の遺体があがったと繰り返していました。
翌朝の河北新報を見て、これはキャンプではないということを知りました。
フィリピン人クルーを率いた韓国人キャプテンを韓国領事館にお連れした際に、当時のインターン先の議員名簿に☓がついていました。頭の中が真っ白になって議員会館の裏で気が済むまで泣こうと思って泣いていたのを覚えています。ちなみにその人は生きていました。
その後ライフラインが復活し始め、避難所で電気がショートしていたため爆発炎上事故(けが人なし)もあったため閉鎖することに。
そこで多くの人の優しさにも触れました。
「パソコンはネットに繋がっているか?」
「繋がっているよ。使う?」
「あぁ、ならいいんだ。君が持ってないのなら貸してあげようと思って。」と声をかけてくれた中国人。
布団を運び出すのを手伝っていたら、
「君は何時に仕事が終わるの?僕たちは3人いて、3人とも布団あるから、寄れば君の入るところくらいあるよ。終わったらおいでね。」と言ってくれたインド人。
一方で自分の身さえ無事ならどうでも良いという人もいました。
閉鎖された避難所から友達の家へ移動しました。
そこは電気が復旧していて、テレビで福島第一原発の建屋が吹き飛ぶ映像、ACのぽぽぽぽぽーんが繰り返し流れていました。
そこで仙台を脱出しようという話しになり、新潟への高速バスを使って群馬に帰りました。
そこで初めて津波の映像を見ました。
それから大学が始まり、
議員事務所でのインターンシップは今だからこそやらねばならないという思いで、ドットジェイピーでの活動をしていました。
時は飛んで大阪で仕事をしていた時、
酔っ払うと泣きながら「東北に帰りたい」と言っていたようです。(記憶はちょっとある)
なぜ「東北に帰りたい」と泣いていたのか、
今日新宿駅で気づいたような気がしました。
きっと、あの時私は東北に忘れ物をしてきてしまったのだと思います。
“可哀想な東北”と言われる度に言っていたのは、
「今必死で歯を食いしばって生きている人がいる。
可哀想なことなんてなにもない。」
ということでした。
当時のドットジェイピーでの活動も、
「東北がいかに強いか、いかに元気かを全国の他支部に知らしめる」とよく口にしていました。
しかしきっと、その“今必死で歯を食いしばって生きている人”の中に、
自分は入っていないのだと思います。
きっと心のどこかで“自分が逃げたと思っている”のだと思います。
大学が始まって仙台に帰ってきた自分は愕然としました。
インターン先だった石巻がめちゃくちゃになっていたこと、
女川の研究所が完全に破壊されていたこと、
南三陸の防災センターを、閖上の、陸前高田市の更地を見たこと。
そしてそこに遠方から大学を休学した学生が活動していたこと。
肉親が亡くなりながら、他人の家族を探す人。
「こんなことなら海なんてない方がよかったんだ」と漏らす、
海と共に生きてきたおばあさん。
当時言語化できなかったのですが、
「自分は何もしていない」と感じていたのだと思います。
きちんと“悔しい”という気持ちを認識したのは復興支援の会合でした。
「震災特需が無くなれば我々東京の人間が東北に来ることもなくなる。」
そう言われたのは衝撃的でした。
それに加えて、(聞いた話しなので定かでないですが)国分町の街には店を閉めた地元の飲食店の代わりに関西資本がやってきて、特需を飲むだけ飲んで帰っていった聞きました。
もしかしたら、今度は自分がそうなってしまうのではないかと思うのです。
あの時一緒に闘えなかった忘れ物をそのままに。
今東北各地で闘っている起業家の方々がたくさんいます。
確かにそれは東北でフィットする事業だからであって、私のものはフィットしないかもしれない。
けれど、「僕が崩れたら皆崩れる。だから、僕が範たらねば。」という忘れ物は、
一度胸に秘めながら、気づいたら置いてきてしまっていた大切なものは、
僕が人生をかけて、いつか取りに行かなければならないのです。
「仙台は支店経済だから…」
「東京に行かないと面白い仕事がない」
「東北大学生はきっとウチなんて面白くないでしょう?」
そんな後ろ向きな言葉を消したいのです。
緑に抱かれ、広瀬川と共にゆっくりとした時間が流れる愛しき仙台の、欅並木から漏れる光のように夢と希望に満ち溢れた世界を作っていきたいのです。
あの時ヒーローになりそこねた、その忘れ物を取りに。
仙台から世界に冠たる大企業を。
『本当にたくさんの命が奪われた。
仲間、家族、恋人を失ったものも大勢いるだろう。
だからこそ思って欲しい。
彼らはなぜその命を散らさねばならなかったのか。
見据えて欲しい。
ここに生き立つ我々が何と立ち向かうべきなのかを。』
―交響詩篇エウレカセブン ユンゲルス―
もう少し、色々なことを含めて考えてみます。
最後まで読んでいただきありがとうございました。