群馬県民なら誰もが知ってる上毛かるたが深かったから聞いてってくんねぇ。
どもども。ごはんでございます。
去る10月28日は何の日か知っていますか?
…そう、まぁ皆知ってますよね。
群馬県民の日です。
各種博物館や美術館が割引、無料になるのですが、
なんとディズニーランドまで安くなります。
さて、そんな日に私は奇しくも群馬にいました。
そして実家にて次のチラシを発見したのです。
おぉ、これは気になる。
知ってますか?上毛かるた。
大阪の小学生は勉強ができるのより、運動ができるのより、面白い子が偉いらしいですが、群馬の場合はこのかるた。
そう、上毛かるたが強いやつが偉い。
各地区で2位~4位までなら団体戦、1位なら個人戦に出れるのです。
大会の直前に家族で上毛かるたを行い、先達に勝利を収めた若武者達が
意気揚々と向かう姿は群馬の冬の風物詩…と勝手に生き物番組みたいに話していたのですが。
さて、まずはグンマーな皆様に上毛かるたの初版をご覧いただきたい。
こんなにビビット。作成されたのは1947年。
まだ戦争の爪痕も残るこの時期にどうしてこんなかるたが作られたのか。
と、この記事を書くのに資料を集めていたらバッチリ紹介されている記事がありました。
上毛かるたは1947年、群馬県吾妻郡生まれの浦野匡彦(後に二松学舎大学学長、群馬文化協会初代理事長)の発案で誕生した。浦野は、終戦で中国から日本に戻り、国土と人々の心の荒廃に衝撃を受けた。また当時の日本ではGHQにより「修身、日本歴史及び地理の停止」がなされ、郷土の歴史や文化が断絶してしまうことに危機感を覚えたという。
「暗く、すさんだ世の中で育つ子どもたちに何か与えたい。明るく楽しく、そして希望のもてるものはないか」と考案されたものが上毛かるただった。読札は公募で集められ、学者や郷土史家など18人による編纂委員会でとりまとめた。絵札は洋画家・小見辰男が担当した。
なんか深い。(小並感)
上毛かるたをやったことある人なら気づくかもしれない“赤い読み札”。
「い」と「ら」なのですが、それぞれ、
「い」:
荒廃した日本が元気を取り戻してもらいたい、その活力を群馬から発信したいという思いからいろはかるたの最初の文字である「い」の札が赤く染められました。
「ら」:
上毛カルタ製作時、日本はGHQの占領下でした。
その為、指令により小栗上野介忠順、高山彦九郎、国定忠治といった人達が読み込めませんでした。
しかし何とかこれらにも日の光を当てたいと願った製作者は、群馬で有名な雷と空っ風という気象現象にたとえて読み込む事にし、その強い思いを赤い札で表現しました。
だ、そうです。
深いなぁ。(再)
他にも田山花袋がなぜ選ばれたとか、新田義貞をどうやって通したとか色々と勉強になることだらけなので気になった皆さんはぜひ群馬の森へ行ってみていただきたい。
上毛かるたの世界は12/9までやってるよ!
ちなみに小学生の頃の私は
上毛かるたに当然全国大会があると思っていた。
のですが、大人になって無いことを知りました。当たり前ですね。
なんと全国大会(キングオブジェイエムケイ)はできてるわ、謎のアプリはあるわで群馬県民の深い愛県心と先進性に触れるいい機会になりました。
正直めちゃくちゃおもしろかったです!
さて、最後に群馬県民鉄板の質問、必ず盛り上がったあと微妙な空気になる質問をします。
「なぁ、運動会、何団だった?」
群馬県民以外は青とか白とか色の名前らしいですが、
群馬は近隣の山の名前です。
だいたい「赤城団」「榛名団」「妙義団」までは一緒で、最後の白とか紫が地元の山なのです。
ところが、その地元の山がマイナーすぎて伝わらないんですよね。
ちなみに私は小学校を2校経験しているのですが、1校は武尊山、2校目は子持山でした。どこに住んでたかわかるかな?
と、思ってたらすごい調査結果を見てしまいました。
各校の校歌に詠み込まれている山です。
皆さんの母校では、どんな山が詠み込まれていましたか?
ということで、群馬の森にレッツゴー!!
※館内は撮影OKです(一部ダメ)