震災から7年目の所感。

どもども。青木です。

 

さて、今年も3/11が近づいてきました。
もう7年も経ちますが未だに心がざわつきます。

9日は東日本大震災の前震があった日です。

 

先日、東北の農水産物を使ってお店をやる、というイベントをしている子が
放射能をばら撒くようなことをするな」と言われたことがあると聴きました。

 

気持ちはわからなくはないのです。
感じる不安、あえてリスクを取る必要のなさなど。

ですが、いや、だからこそ激昂してしまうのでしょうか。

当時東京から来た実業家が「東北にいろんな人が集まるのも今のうちだ。我々はカネにならないと思ったらすぐに引き返すから。」こう言われて言い返せなかった悔しさを、国分町流入した他地域資本の飲み屋が、震災特需の収束と共に去っていった歯がゆさを未だに覚えています。

 

そういった暗い気持ちがどうしても顔を出してきます。

 

牡蠣の完全陸上養殖を目指す、教授が笑顔いっぱいで語っていたビニールハウスが流されたこと。
先輩との連絡が3ヶ月近く取れなかったこと。
ガラスの泥を指で落として書いた連絡先があった石巻
行方不明者、死者の数が書かれた大島の災害対策本部。
閖上神社の場所に登って初めて気づいた、そこが原っぱではなく住宅街だったこと。
「こんなことになるくらいなら、海なんていらない」と呟き、海を睨みつけたおばあちゃん。


それ以上に、そこで生きる人達の強さです。

外からいくらでも批評はできる。
「もうそんなところ離れなよ」と思うこともある。
それでも、歯を食いしばって生きている人達を見ました。

陸前高田の奇跡の一本松。1億5000万円の修繕費をかけたことが、大きな議論を巻き起こしました。
現地に行って感じたのは、「これは、ここにもう一度街を作ると決めた覚悟の一本松だ」ということでした。その覚悟はお金に替えられるのでしょうか。

東北大学の歯学研究科では亡くなった方の身元確認をされていたと聞きます。
「材料なくなるまで」とお金が無い人にも出していたラーメン屋。
自分の家族や親戚が亡くなっているのに行方がわからない人を探す活動に身を投じる人。
多くの企業の超法規的支援などをされたことなど、あの時多くの人が「今自分ができることを、誰かのためになることをしよう」と思えていたように感じます。

私は当時、「自分が強くいなきゃ、自分が崩れたら皆崩れる。」と考えていたのですが、多くの人がそんな気持ちだったと聞いています。

 

それはきっと、当時から今までずっと変わらないことなのかもしれません。
「今自分ができることを、誰かのためになることをする」
そんな人があふれる世界を、“助け合いの社会”をこれから作るのです。

なぜなら私はその“優しい社会”を見てきたらです。
どんな心から出てきたものかはわかりませんが、
そのアウトプットは間違いなく“優しさ”だったのです。

さて、自分にできることを、誰かのためになることをやっていくとしましょう。
多くの命の上に、今の生があるのだから。

 

何より、東北から反攻を始めねば。
いつまでも支店経済だとか言わせてはいられないわけです。
東北から世界的企業を建てぬことには格好がつかぬと思うのです。
なにせ東北は素敵な上に、なんとも度し難いところなのだから。


拙い文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございました。