孫ポジ課題はなぜ放置されるのか 〜”地域コミュニティ”って面倒くさい?〜

こんにちは。MI起業家ごはんです。

 

前回は孫ポジ課題について書きました。

 

gohandesuyokun.hatenablog.com

 今回は孫ポジ課題がなぜ解決されないのか、そしてどうすれば解決されるのかについて書きます。

 おさらいです。

孫ポジとは
・本人にとってはちょっと大変なこと
・他の人にとっては簡単に解決できたり、楽しんだりできること
・やってあげた方、やってもらった方、両方が嬉しいこと
・孫ポジ課題を通して人の繋がりができること
・本人とやってあげる方にとって、お金で解決するほどのことではないもの

です。

◼孫ポジ課題の解決方法はその人が立っているベースによって変わる

 いただいたご意見で
「あの概念って一部のひとにしか共感されないのかもって思った。ラッキーなことに、いろんなひとに甘やかされて、或いは助けられて、愛されてきたひとに限られるというか。」

というものがありました。
そうなんです、正にその通りです。

孫ポジ課題は解決されている人にとっても、解決されていない人にとっても
「そういうものだ」という認識によって目に見える形になっていないからです。
つまり、“家族や友人の力を借りて解決するもの”と思っている人にはそういうものとして、“自分で解決するもの”と思っている人にとってもそういうものとして常識化している現状があります。

 

私がなぜ“孫ポジ課題ってのがあるんですよ”とここでのたもうているかというと、
この“孫ポジ課題は自分で解決するもの”と思っている人の声によって息苦しい世の中が存在していると感じているからです。

「子供はお母さんとお父さんで協力して面倒みるもの。」
「買ってきたものばっかり食べてると体に悪いからちゃんと作りなさい。」
「自分ちの前の雪かきくらい自分でやれよ。」

ライフスタイルの変化によって家族観や地域との繋がりが変化している中で、
これらの言葉の前提が変わってきているのです。

コミュニティの最小単位は家族なので、家族について触れると、
核家族や単独世帯の急増は1975年からみられています。
しかし、ここ40年で生きている人間がまるっと入れ替わっているわけではありません。
家族観や、地域の人との接し方は人それぞれどんどん複雑になっています。
孫ポジ課題の解決の糸口は“できること”の共有ですので、家族観は大きな影響を及ぼします。家族観についてはしっかりやりたいので後でまた別に書きますね。

地域での孫ポジ課題のやり取りが可能である状態、もっと一般的に使われている言葉で、共助・公助がなされているコミュニティを地域コミュニティと定義すると、
自分の周りの人達が出たり入ったり、そして自らの出入りによって地域コミュニティが簡単に、そして音もなく崩れるのです。

 

◼コミュニティの安定性と認知論

 安定性の高い地域コミュニティは下の図のように、ずっといる人達によってコミュニティの核が作られ、その中で共助・公助が発生する。ずっといる人達による核が存在するので地域コミュニティは安定して機能する。入ってくる人は人間関係の深さによって、核に取り込まれたり、取り込まれなかったりする。

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一方で人の流動が激しいコミュニティにいたっては、共助・公助が発生するまでの信頼関係が生まれないためコミュニティとして成立しにくい。むしろ共助・公助を使わずになんとかしようとし、実際なんとかなるためより地域コミュニティを必要としないのです。結果コミュニティはコミュニティとして機能しなくなり、崩壊していきます(下図)。ここは根が深い問題なのでまた今度触れます。

 

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この辺りが、人の家族観やコミュニティ観に影響を与えていると踏んでいます。
特に、コミュニティの互助・共助機能の恩恵を受けていない人はコミュニティを面倒に感じる印象があります。まぁ、当たり前ですよね。いいことなかったんだもの。

その、コミュニティでの互助・共助機能でやり取りされる課題が孫ポジ課題です。互助・共助機能がサッカーというゲームの仕組みだとしたら、そのプレイヤーの間で蹴ったり投げたりシュートしたりするボールこそが孫ポジ課題なのです。
サッカーを経験した人にはその楽しさがわかりますが、経験していない人にしてみればイメージしかわかりません。
余談ですが私青木はサッカー観戦に行ったことはありません。サッカーファンの友人Aさんに出会うまでサッカーの試合はバイオレンスで熱狂的な方が見に行くものだと思っていました。だってテレビで流れてても、暴れた時しかクローズアップされないしね。
ちなみに私に「サッカー観戦って楽しいんだよ。暴力的なヤツらは一部だよ。」と教えてくれた方はファンの間で『チンピラ太鼓』と呼ばれているそうです。ままならねぇ。

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イメージで物事を判断する哀しさ。もっと知りたい方はアドラーの認知論をどうぞ。

Aさんが一部のファンにチンピラと呼ばれている一方で、私のAさんに対する認識はいい人なのでアプローチの仕方は当然異なります。

Aさんをいい人だと思っている私はAさんに好意的に接しますし、
Aさんをチンピラだと思っている一部のファンは乱闘になった際、大人数で止めにかかるのです。すごい世界ですね。

同様に地方⇔都市のライフスタイルの違いが、課題を互助・共助で解決してきた人達と、自分の力で解決してきた人達、また“そういうもんだ”と諦めている人達を分けました。そして『○○という課題は××のように解決する』がそれぞれ異なるのです。本来解決策なんていくらでもあっていいのですが、価値観の押し付け合いに達すると実害が生まれます。その上、議論をしても見ているところや、立っている場所が違うのでなかなか進まないのです。企業においても理念浸透に時間をかけますよね。立っている場所が明確になること、視点のベクトルを揃えることが大切なのです。


◼地域コミュニティに対する明確なイメージを持とう。

“地域コミュニティ”に対するイメージは人によって違います。
先述したようなライフスタイルや自身の価値観などによって、
温かみのあるものに感じる人や、じめじめしたものであると感じる人、ドライだけれど休みの日に朝早く起きて草刈りをする…などなど色々なイメージがあります。

私のいう、“地域コミュニティ”は互助・共助のやり取りで繋がる、実際に血の通った関係があるコミュニティを地域コミュニティと呼んでいます。

 

互助や共助の関係がなされるためには信頼関係が醸成されるまで文字通り、かもす必要があります。(わかります?かもすぞ〜って。もやしもん、読みましょう。)

 

この信頼関係の醸成は簡単なようで難しい。
パーティーでちょっと話した、挨拶をした、くらいのレベルでは「タルを用意しました。」「仕込み水を用意しました。まだ合わせてませんけど。」くらいのことで、材料を合わせたり、合うかどうか試したりしていないのです。

色んな素材が混ざってぐちゃぐちゃになって、長いこと一緒にいるだけで作用し合って一本の美味しいお酒ができるわけです。いや、美味しいかどうかはわかりませんね。もしかしたらとても飲めたものではないかもしれない。「お、お前と合いそうだな」とか「うげー!一緒にやっていられないよ!」なんて組み合わせが今までにたくさんあった中で、美味しいお酒は磨かれてきた。人間関係の磨き方もそれと一緒ではないかと思うのです。

素材と素材をまずあわせ、一緒にしてぐちゃぐちゃにして、どうだった!?というサイクルを小さく回しまくることが現代のコミュニティ形成にとって必要なのです。
いい素材が手元にあっても、合わせてみなければタルはカラのまま何も生み出さず、水は淀んでいくだけなのですから。

 

話しをコミュニティに戻しましょう。
孫ポジ課題放置の裏には述べてきたような下記のことが起こっています。
・家族構成の変化がもたらす人付き合いに対する価値観の複雑化
・人の出入りと仕事の専門化・外部化による互助・共助カルチャーの分断
・バックグラウンドの違いとイメージにより議論が進まず泥沼化しやすい

これらによって孫ポジ課題は解決されないのです。
裏を返すとこれらを解決すれば孫ポジ課題が解決できます。
それには家族観が大切なのですが、それは次回以降〜♪

今回はここまで!読んでいただきありがとうございました。 
寒くなってきたけれど、君のハートにリット・ア・ファイヤー!