僕がMIになるまで ひいおばあちゃんの教えてくれたこと〜大学受験まで編

どもども。MI(無職で居候)の青木です。

 

今日は僕の幼少期のお話しをしたいと思います。

僕は小学校3年生まで群馬の山奥で暮らしました。

一番近いお店は車で20分くらい、学校までは徒歩1時間くらい。当時一番近い友達の家まで小学生の足で歩いて20分くらいでした。

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家の裏山から撮った風景。のどかでしょ。



 

当時の家族構成はひいひいおじいちゃん(物心つき始めたくらいに亡くなる)、ひいおばあちゃん(高校二年生くらいで亡くなる)、ひいおじいちゃん、ひいおじいちゃんの弟(中学校くらいで亡くなる)、父・母・妹の7人家族でした。

 

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小さい時の私と妹。かわいいでしょ。



 

 

◼ひいおばあちゃんから教わった人付き合いの基本

私の人格形成にはひいおばあちゃんが大きく関わっています。特に、人との付き合い方を教えてもらったと思っています。
私の家では取れたお米を温泉旅館に納めていました。一緒についていってはひいおばあちゃんの友達の家に寄ることが多かったです。
ひいおばあちゃんからは


・人の家に行ったら『お腹すいた、つまらない、喉乾いた』と言ってはいけないこと。
 お客さんとしてのマナーがある。

・家にお客さんが来たら、角を曲がるまでお見送りすること。
 すぐ鍵をかけるなんて絶対ダメ。
 振り返った時に誰もいなかったら寂しい気持ちにさせてしまう。

・男が一度"出す”と言ったものは引っ込められないこと。
 約束を破ってはいけない。

・いただきものはなんであれ「ありがとう」と伝えること。
 こちらのことを思って用意してくれている。

・国の世話になるのは恥ずかしいということ。
 自分達のことは自分達でやることで国が良くなる意識を持つ。

なんてことを教わりました。
昔の人らしい発想ですね。

小さい頃の最高の思い出は稲刈りですかねー。
皆で刈った米をお風呂に入っている間にひいおばあちゃんや母達が炊いて、
脱穀したての白米を炊き、おにぎりにして食べます。
考えただけで最高ですね!

 

さて、この生活は小学校3年生の時に終わりをつげます。
もう少し街の方に引っ越すことになりました。
父の職場が遠かったことと、田舎で勉強させるのは良くないと母が考えたためです。
今思うと私のためになる判断をしてくれたと思います。
なぜならそのあたりは「大学行くの?勉強好きなんだね!」なーんて言われてしまうくらい田舎だったのです。

ちなみに近所のお兄ちゃんが東大に行きましたが村中の大騒ぎになりました。

 

小〜高2時代は簡単に。
・「自分には何か天才的にできるスポーツがある」と信じて水泳、卓球、
  トランペット、陸上、弓道、バスケなどにチャレンジ。
  剣道は当時好きだった子がやっていたから始めた。初段。

・「新しい学校ができる」と聞いて中高一貫校を受験。
  理由は、「受かったらカッコ良さそう」、
 「『先輩とかめんどいよね』って言う俺カッコいい。」と思ったから。

・兎にも角にもちゃらんぽらんな上に調子乗るので
 部活の顧問の先生によく怒られていた。悪いことしてたのは自分です。

 

◼激闘!愛の受験勉強!

高校二年生の時、転機が訪れました。
「勉強を頑張ろう」と思ったのです。

 

理由は二つ。

1. 一個上の先輩が法政大学に合格し、

「俺はアイツより頭がいいはずだ。だからMARCHよりレベルの高い大学に行きたい。」と思った。

2.好きな女の子が「京都の大学に行きたい」と言った。

 

なので

 

「よし、京大行くか!」→「勉強を頑張ろう」という流れに。
   全ては愛ゆえに。

そこで初めて模試に大学名と学部を書きました。
東北大学 E
京都大学 E

デスヨネー。
ところが、京都大学E判定で終わりません。
なんと下から5番目だったのです。

すごいですよね、「よっしゃ京大行こ!」となっているのに、
「うぇ〜い書く大学ないからデジタルハリウッド大学ノースアジア大学…京大書いちゃえ〜!」みたいなFラン・ド低能が僕の下に4人もいる!

「天才なので本気出せば余裕っす」と思っていた私でしたがさすがに下から5番はマズいと思い、ちゃんと勉強しようと思いました。

 

部活を辞め、塾に通い、1日16時間勉強。寝てる時以外はずっと勉強しました。
(勉強しながら寝てる時間は勉強時間にカウントしたよ!言葉遊びだね!)

 

◼ 傍観者だった先生たちが伴走者に 

最初は先生たちも「まーた青木がなんか言ってるよ」という反応でした。

しかし、1週間で1冊キャンパスノートを終わらせたり、毎日のように質問に行ったりするうちに変化が出てきました。

だんだん先生たちが「青木、大丈夫か?」「京大の問題集めて作ったで。」と協力してくれるようになりました。塾の先生に「空いている時間が短いから、鍵が欲しい」と言ったら作ってくれました。近所のファミマの店長はよくファミチキをごちそうしてくれました。周りの人達のおかげで16時間も勉強できていました。

 

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当時のカードや悔しさにじみ出るノート。先生の印鑑がいい味出してるでしょ。

結果が出たのは3年の11月模試。それまではEやDを行ったり来たり。
先生たちも「青木、大丈夫か?」「まだまだ伸びるから大丈夫だって!」と励ましてくれましたが、私自身としてはのほほんと「こんだけやってできなかったら才能がないって諦めよう」と思ってました。

 

◼躍進!偏差値45→偏差値72

3年の11月に、やっと出た結果はいきなり高いものでした。
東北大学 A判定
京都大学 B判定

東北大学は上から21番!この時は大喜びしましたね。
時間は前後しますが、3年生の夏には京大ではなく東北大学を第一志望にしました。

理由は、オープンキャンパスで京都の街を歩いていたら「チャリンチャリン!!」と後ろから来た自転車に追い立てられたこと、四条あたりの人混みを見て「都会はダメだぁ〜!」となったことが大きいです。
一方、オープンキャンパスで行った仙台はのんびりしていて、道も広く素敵な街でした。魚の本当の美味しさに出会えたので、仙台で良かったと思います。

いや、もっと他にいいところもあるんだが!
ちなみに恋の行方は次回に持ち越しましょう。
合格後にアタックしましたが、フラれました。
この時4回目だったと思います。

 

センター試験で数学の平均点を割り、記念受験かも…というところでしたが、
「ここまで頑張ったから最後までやる」という気持ちで二次試験を受験。
忍風戦隊ハリケンジャーの、「最後まで諦めない〜♪赤青黄色元気の印〜♪」というフレーズを聴きながら挑みました。

周りの受験生の単語帳が綺麗だったことが印象的でした。自分の単語帳は表紙もページもなくなり、なんなら墨塗り(これはわざとだね)だったので自らの勝利を確信しました。

 

数学の時間はもう一瞬で過ぎました。
何をどう答えたか覚えていないくらいの集中力を発揮しました笑

そんなこんなで仙台の地を踏み、東北大学に入学いたしました。

次は大学生活〜パナソニックを辞めるまで編でいきます(収まるかな)?。
noteをご覧いただいていた皆さんには重複するところもあるかと存じますが、
どうぞユルッと眺めていただければと存じます。

ここまで読んでいただいた皆さんに、マジアモーレ。